第3回・丹後100㎞ウルトラマラソン回想記その②
前回からの続きです。
~七竜峠を越えて久美浜町へ~
カウントダウンを終えると同時にスタートの号砲が鳴り、850名ものランナーがトップ集団以外はのんびりと走り出します。これは16年経った今も変わらぬ光景です。
僕もゆっくりとスタートを切り、スターターを勤めた山田花子さんの下に近づき、手を振りながら「花子ちゃん、かわいい!!」と叫んだ思い出があります。
実際、生の山田花子さんは可愛らしかったです。やはりテレビに出ている芸能人は違うなぁ~等と思いながらスタート会場のアミティ丹後を出発。
早朝4時半という時間帯はまだ太陽も昇っていません。それにも関わらず、町の皆さんが沿道に立って応援しているのは今と変わらぬ光景でした。
そして序盤のコースは今のコースと同じく、久美浜漁港に向けて走り、そこから七竜峠に向かって上り坂を進んで行くというものです。
太陽が昇っていないので早朝と言うより夜間とも言える時間帯。そんな時間帯にスタートする大会なんて、この丹後が初めてでしたので新鮮な気持ちでしたね。そして暗闇の中を黙々とランナーが足音だけを立てて走って行く光景は異様な感じがしましたが、その中に自分がいることが何だか楽しかったです。
さて、初めての七竜峠へ向かう上り坂ですが、若さもあったのでしょうか、スイスイと苦も無く上って行く自分がいました。スタート時は真ん中辺りにいたでしょうか。この上り坂で先行していたランナーを追い抜いて行くのは心地よかったですね。しかしそれは若さゆえ。これからのコースがどんなものか把握していないという無知ゆえの走りでした。
やがて七竜峠のエイドに到着し、そこからは下りが始まります。エイドで何を食べたとかいう記憶は当然のことながらありませんが、そこから始まる下りをかっ飛ばしたことは覚えています。今思い返すとウルトラマラソンの走り方を全く解っていなかったのでしょうね。とは言え、今も解りませんが。
下って行く内に太陽が徐々に昇っていき、日本海を白々と照らし出します。
あの光景は今も変わらず。しかし当時はあの日の出を「おぉ!」と声を出すほど感嘆した思い出があります。
さて、下りが終わりまして久美浜町へ向かいます。途中、民宿街を通って10kmを通過。その時のペースはちょうどキロ6分を切るぐらいでした。そのまま100kmを走りきるとサブ10をするペース。当時、そんな「サブ10」という言葉など知る由も無く、単純にサークルの先輩ランナーYさんが10時間台で100kmを走ったという話を聞いていましたので、自分もそれぐらいのタイムで走れるだろうという根拠の無い自信を持って、そのペースで走っていました。
~梨が美味い~
さて、そこからの記憶はあまり定かではありませんが、キロ6分を切るペースで快走していたことは間違いありません。サークルメンバーの中ではシリアスランナーのS君に続く2番手だったと思います。
どんどん進んで行き、くみはまSANKAIKANのエイドに到着。ここで梨を頂きましたが、これが抜群に美味しかった記憶があります。
「なるほど、丹後って梨が美味いんや」
そんなことを思ったでしょうかね。梨を数切れ食べ、エイドを出発。
そこから久美浜湾を一周しますが、そこの記憶はありません。ただ20kmをやはりサブ10ペースで通過した記憶はあります。
ただ覚えているのは小天橋を越えてから、30kmの第一関門までの平坦コースが少し苦しかったことですね。今もそうですが、あまり代わり映えのしない景色が続くのでちょっと疲れたのかもしれません。ただペースは落とさず、無事に30kmの第一関門に到着。今の海山園ではなく、当時は臨海学校跡地でした。ここではアンパンやクリームパンを頂きました。朝食を食べたとは言え、もう消化されて空腹を覚える時間帯。アホみたいにバクバク食べましたね。
それから第一関門を通過し、再び網野町へ戻って行く訳ですが、その区間が今とは大きく異なっていますね。当時のコースMAPが無いので詳しくは分かりませんが、梨農家の民家前を数軒通って行く上り坂がありました。その数軒の中の2軒が梨をカットして奉仕してくれていたのですよ。これは本当にありがたい私設エイドでしたね。
その梨が本当に美味い。アンパンやクリームパンを食べたばかりだというのに、ここでも数切れ梨を頂きました。ちなみに1軒は農家のおばちゃんが3人ぐらいいて、梨の皮をむいて提供してくれていました。もう1軒は無人の私設エイド。テーブルにまな板とナイフが置いてあり、その横には大量の梨の山。そして紙が一枚。
「お好きに切ってお食べください」
そんなことが書かれていましたかね。僕はこの後数年、この区間が本当に好きでして、第一関門を終えたら美味しい梨が食べられるとわくわくしながら走っていました。ただ今はコースが変更され、この区間は走りません。しかし変更されたコース上にも同じような私設梨エイドがあり、今年もランナー達がお世話になっていましたね。
僕はその梨エイドに立ち寄らず。心に余裕が無かったのでしょうか。
~うどんを目指してひた走る~
30kmを超えてもサブ10ペースは遵守したままです。
梨農家区間を超え、再び日本海を望みながら七竜峠へと向かって走ります。
当時の記憶は定かではありませんが、七竜峠の復路もペースは落とさず走っていたという記憶だけはあります。なのであの上りも歩くことなく走っており、先行していたランナーを何人も抜いて行きました。
そして40kmを通過し、42.195kmも通過。
順調に進んでいるようでしたが、日が出て暑さを感じている時間帯でもありました。42kmを通過するまでの間、自販機でジュースを買って飲んでいるランナーの姿を見て「なるほど、小銭を持って走るのもありだな」と思った記憶があります。
それまでマラソン大会といえば給食も給水もエイドのみ。小銭を持って走るなんて考えは一切無かったので、その光景は本当に新鮮そのものでした。
さて、フルの距離を越えて坂道を下って行き、うどんエイドで有名な浅茂川漁港に到着です。この当時からファイテン元気ステーションとして、地元の中学生達がランナーの脚をマッサージしてくれるサービスがありました。それもまた目新しいサービスでしたので、僕も立ち寄り、マッサージを受けます。
しかし当時は60kmのランナーも合わせて1200名程のランナー。その数をマッサージする中学生の男子達は大変だったと思いますが、今はその3倍なんですよね。かなりの負担だと思います。汗まみれのランナーの脚をマッサージ……。なんだか申し訳ないですね。ここ最近、あのマッサージサービスは受けていませんが、中学生達には感謝の気持ちでいっぱいです。
さてさて、マッサージを受けつつ、うどんも頂きます。フル以上の距離を走ってきてのうどんの味は格別だったんでしょうが、あまり記憶はありません。
ただ2杯食べたという記憶はあります。
~丹後あじわいの郷へ~
うどんを食べ終えて出発。フル以上の距離という未知なる領域に踏み入った訳ですが、当時の僕は単純に「もう少しで50kmだな」ぐらいの気持ちしか無かったです。
そしてやはりコースの記憶はあまりありません。ただこの区間だったか忘れましたが、丹後ちりめんを織っているのであろう機織りの音が鳴り響く中を走っていた記憶があります。もっと前の区間だったかもしれませんが、機織りのガッタンガッタンという音が印象的でした。確か今はそんな区間を走っていませんよね。個人的にはあの音を聞くと「丹後に来たなぁ~」なんてことを感じていました。
さて、さすがにフルを過ぎるとペースが落ちてきていました。
しかも気温が上昇して暑い。
そんな中、50km地点に位置していた丹後あじわいの郷に到着です。
今では「食のみやこ・丹後王国」という名前に変わっていますが、当時は「あじわいの郷」でしたね。ここが丹後ウルトラの名コースのひとつでして、きつい上り坂を上らされてあじわの郷に入園。そして園内をぐるり一周できるというコースでした。
入園するまでの坂道がきついのですが、すでに一周してきたランナーとすれ違う区間でもあり、ランナー同士がエールを交わす区間でもありました。なのできつい上り坂でも歩いている姿を見せる訳にはいかないという気持ちがあり、我慢して走っていましたね。
ちなみにあじわいの郷園内はスイス村みたいな感じでして、家族連れといった観光客で賑わっていました。ここのエイドでは菓子パンが頂けましたし、園内のトイレも借りることが出来たので有難いエイドでした。今、ここを通らないのが残念ですね。
さて、あじわいの郷園内を一周しまして今度は上ってきた坂を下って行きます。
ここで後続のKボリ君とすれ違います。その差は1.5km程度でしょうか。僕のペースがどんどん落ちていたので、追いつかれつつありました。
特にライバル意識を持っていた訳ではありませんが、負けたくないなという気持ちが若干あった為、そこから頑張って走っていたという記憶があります。しかしその区間は本当に苦しかったですね。
もう少し行けば弥栄庁舎。
そこで着替えをして気分転換しよう。
それだけを考えて頑張って走っていましたね。
やがて見てきた弥栄庁舎。そしてここで僕は預けていた荷物を受け取ります。
まだこの時点ではリタイヤすることなど微塵も思っていなかったのですが、この先に丹後ウルトラマラソンの最大の難関が待ち受けていたのでした。
続く。次回で最終回です!
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