第3回・丹後100kmウルトラマラソン回想記その①
当ブログでは私が参加したマラソン大会を振り返っていまして、前回は2002年まで回想記を書いていましたね。今回は2003年を振り返る予定でしたが、ちょっとここで2003年に出場した大会で一番思い入れのある「丹後ウルトラマラソン」について語ろうと思います。
ちなみに今回のブログは2018年に書いた投稿を再構成したものです。なので文中、自分の年齢がおかしかったりする点がありますが、ご了承下さい。
ではでは、振り返って行きます。
~失われた時を求めて~
初めての丹後は初めてのウルトラマラソン100㎞挑戦であり、やはり2回目、3回目と異なり最も印象深く、記憶に残っている大会でもあります。そこでその思い出深い100㎞初挑戦の丹後ウルトラの記録を薄れつつある記憶を辿って記していこうと思います。
当時の写真がありませんので文章だけの面白みにかける記事になるかと思いますが、40歳を前にした中年オヤジの思い出話として、最後までお付き合い頂けると幸いです。薄れつつある記憶を辿っていく作業ですので多少の間違いがあるかと思いますが、そこはご愛嬌としてお許しください。
それでは初めての丹後ウルトラ、15年前(※2018年時)に遡っていきましょう。
~100㎞への誘い~
15年前の話ですので大学院2回生の頃、当時24歳の私は文学部に在籍していましたね。フランス文学という顔に似合わぬ学問の研究に勤しみながら、学生時代から参加していたマラソンサークルで汗を流す日々を送っておりました。
その時から付き合いのあったオーシャン殿から「丹後ウルトラマラソン」のお誘いがあったのは春頃だったでしょうか。オーシャン殿は丹後に第1回から出場しており、その時の話を聞いて「とんでもなく過酷だな」という感想を抱いた記憶があります。何せフルマラソンを超える距離を走ったことが無かったので、100㎞という距離がどんなものなのか想像できない世界でしたからね。
「コースの端っこでゲーゲー吐きまくったわぁ」
オーシャン殿の話の中でその点が最も印象的でした。その印象的なエピソードが後の僕のゲゲゲ習慣に繋がっているのかもしれませんね。
そんな過酷そうな丹後ウルトラマラソンを「出てみる?」とお誘いを受けまして、若さゆえと言いましょうか勢いで「やりましょう」と出場を決意。
その決意がその後の人生を狂わせることになるとは当時は思ってもいませんでした。
~初めての100㎞に向けて~
丹後ウルトラに出場することを決意し、それからどんな練習をすれば良いかということで参考になったのは、やはり第1回から出場されているオーシャン殿の意見。
「100㎞を完走するには最低でも月間200㎞を走っておかないと駄目」
今では月間300㎞がウルトラを走る上での基本的な月間走行距離と言われていますが、当時は月間200㎞ぐらいでも「走りすぎやろ?」という感覚でした。何せサークル活動は週に2回ほど。しかも昼休みの間に大学構内にあるグラウンドの400mトラックを30分ぐらい走るという練習だけでした。加えて週末も走るかどうかというランニング習慣でしたからね。
そこでやはり初ウルトラのメンバーを率先して鍛えてくれたのがオーシャン殿です。彼が考えてくれたメニューは夕方から大学(吹田市の関西大学)を出発して万博記念公園まで走って、再び大学に戻ってくるというメニューでした。
往復で15㎞程のコースでしたが、昼間に400mトラックを30分程ぐるぐるするだけの練習をしていた僕らにとっては厳しいメニューでした。しかも結構起伏のあるコースなので足腰を鍛えられるコースです。
そんな当時としては厳しく感じられるコースでしたが、それ以上にサークルメンバーと15㎞のコースを走るのは楽しくもありました。メンバーは初丹後組がメインでしたが、中には丹後に関係の無い面子もおり、ただ単純に楽しく走っていましたね。
そんな具合に週に2回程、そういうメニューをこなしていたでしょうか。その練習も楽しかったのですが、走り終えてからのみんなで晩飯を食べに行くのも楽しかったですね。大体が餃子の王将か、マラソンサークルの先輩がバイトをしていたケープというアジアンキッチンでの晩餐会が主流でしたね。
~15kmランニングと水泳~
丹後ウルトラに向けての練習は15㎞の往復コースが主流でしたが、その中でも思い出深いのがいつものメンバーと一緒にA君という後輩が練習に参加した際の話。
いつものように万博まで走り、復路を辿って大学に向かっていたのですが、途中からA君が付いてこれなくなる。先に行って下さいというA君に150円だったか小銭を渡し、僕らは先に大学へ。それからお店はどこか忘れましたがいつものように夕食を食べていると、遅れて走り終えたA君がお店で合流。
A君に渡した小銭は途中の自販機でジュースを買うことに使ったとのこと。
「あの小銭が無ければ大学に辿り付けていなかったかもしれません」
特に面白いエピソードでもないのですが、A君のその言葉が妙に印象に残っています。A君、今頃何をしているんだろうか。
そんな練習は夏場でも行っていました。大学の夏休みは前期試験が終わる7月頭から9月末までという長期期間でしたでしょうか。その間は自分の研究テーマの勉学に勤しみつつ、丹後挑戦メンバーとでいつもの15㎞練習を行っていましたね。夏休みなので夕方からではなく、昼間から走るということも行っていました。昼間に練習を行った時は大体走り終えてから大学構内のプールに行き、そこで泳ぐということも行っていました。夏なのでプールで泳いでさっぱりしたいという考えもあったのでしょうが、ランとスイムで持久力アップに繋がる練習だったような気もします。
ちなみに水泳ですが、僕は平泳ぎしかできなかったので、平泳ぎばかりしていました。平泳ぎで1㎞のスイム。あれはあれで楽しかったですね。
~初めての丹後へ~
そうした練習を数ヶ月行いまして、いざ丹後へ。
当時のメンバーが誰だったのか記憶が定かではないのですが、確実にいたメンバーはオーシャン殿と後輩のKボリ君でしたね。後はS君やKベ君もいたかどうか?
全員でまとまって行動していたか忘れましたが、初めての丹後への交通手段は電車でした。大阪から福知山線で福知山へ。そこから北近畿タンゴ鉄道に乗り込み、網野駅で下車する訳ですが、福知山からの乗り継ぎで1時間ほどの空き時間が生じていましたね。その1時間の間で昼飯を食べるのが、その後の丹後電車旅での定番コースとなっていました。昼飯の場所は餃子の王将でしたね。やはりランナーは王将が好きですね。
昼飯を食べ終えたらタンゴ鉄道に乗り込み、網野町へ向かいます。
一駅ごとに停車するローカル線の旅を楽しみつつ、網野駅に到着。
そこから会場のアミティ丹後まで大会バスが出ているので、それに乗り込み会場へ向かいます。
会場に到着すると今ほどではないですが多くのランナーや関係者で賑わっており、興奮したのを今でも覚えています。当時、スマホを持っていたら写真を撮りまくっていたでしょうね。
受付を済ませ、スポンサーのブースを見て回るという流れは今も変わらずです。
その後、民宿へのバスが出る時間となり、一同はバスに乗り込んで民宿へ向かいました。民宿は宿泊費が三段階に分かれていまして、ホテルでの宿泊が一番値段が張りましたね。もちろん僕らは貧乏学生なので格安の民宿でしたよ。
~民宿にて。眠れぬ夜~
民宿はどこだったか忘れましたが、居心地のいい民宿でした。夕食がかなり豪華だった記憶もありますが、メンバーの一人は「消化に悪いので」と言って魚介類を食べていなかったのが印象的でした。食事内容を気にするだけあって、彼は後年、丹後で優勝したほどのエリートランナーでした。それとは対照的に僕やKボリ君は「うまいうまい」と歓喜しながら食べていましたね。産地の食材を使っている料理が美味しいのは当然のことながら、オーシャン殿以外は全員初丹後なので夕食での会話は盛り上がっていたような記憶があります。
夕食を終え、部屋に戻って翌日の準備をしたりして時間を潰したでしょうか。終身時間は早めに午後9時頃だったかと思います。
しかし若い二十代が普段からそんなに早い時間に眠る習慣がある訳も無く、なかなか寝付けませんでした。そこで僕は小銭を持って民宿のロビーへ。
そこでどちらが先にロビーにいたのか忘れましたが、オーシャン殿もロビーへ。
「明日のこと考えたら興奮して眠れませんわ」
そんなことを話し、二人でロビーで談話。その時、僕はロビーの自販機でなんとビールを購入して飲みながらの談話。大会前日にビールなんて今では「脱水を促すので前日は禁止」なんて言われるのに、当時はそんな知識は無かったですね。
それに当時も僕はビールはあまり飲まなかったのですが、その時だけは飲んでしまいました。アルコールで酔って、ぐっすり眠りたかったこともあるのでしょう。
こうして缶ビール片手にオーシャン殿と談話。
何を話していたのかは忘れましたが、これで緊張がほぐれたのでしょうか、その後部屋に戻って就寝となりました。
~アミティ丹後へ~
起床は午前2時頃だったでしょうか。記憶は定かではありませんが、早朝の起床であったことは今と変わりません。そして朝早くから民宿の方々が忙しなく朝食の準備に勤しんでおりましたね。
朝食は民宿の定番とも言えるようなメニューだった記憶があります。
これから長丁場になるのでもりもり食べておけということで全て平らげましたが、やはりS君だけは食事内容を気にしてあまり手をつけず。代わりに前日購入していたバナナを数本食べていたことが印象的でした。
こうして朝食を終え、部屋に戻って大会準備。そして時間になり、民宿の送迎車に乗り込んでアミティ丹後へ向かいます。
そこからは本当に初めての体験ばかり。当時は今のような当日受付も無かったので、会場はそこまで混雑はしておらず。それから会場に預ける荷物を受け付けに手渡し、途中の弥栄庁舎(当時は弥栄町役場という名だったかな)、碇高原牧場で受け取る荷物をトラックに預けて、スタートラインへ並びに行きます。
当時の100㎞参加者は850名ということで、2018年の2256名と比べると少なかったですね。当時ウルトラマラソンと言えば今以上にマイナー競技でしたので出場者は少なかったです。加えて若者はあまりいませんでした。
それでも「こんなに100㎞に挑戦する人がいるんだ!」と感動した記憶があります。
スタートラインにはオーシャン殿とKボリ君達と一緒にいたと思います。
そこでMC(当時もわかちゃんだったかな?)と大会プロデューサーの坂本さんの話を聞きながら、スタートの号砲を待ちます。
そして第3回のゲスト(スターターのみ)・山田花子が現れた時は大盛り上がりでしたね。ちなみに第1回と第2回は間寛平さんがゲストでした。市民ランナーとして尊敬していた寛平ちゃんが今回もゲストだったらなぁ~と少し残念な気持ちもありましたが、花子ちゃんも好きなので満足でしたね。
花子ちゃんが何を話したのかは記憶に残っていませんが、生で見る芸能人に興奮した記憶があります。ミーハーでしたね。
こうして盛り上がりを見せたスタート前。
いよいよカウントダウンが始まり、いざスタート。
初めての丹後ウルトラマラソン挑戦の幕が開かれたのでした。
続く
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